過去はいつも新しく
未来はなぜか懐かしい
ジュークボックスは僕らを過去から未来へ跳ばす!”タイムマシーン”なのだ。
2022年、沖縄復帰50年の記念イベントのお手伝いで立川直樹と僕は沖縄に何度も通っていた。
そこで出会った1965年製ジュークボックス、僕は迷わず手に入れたのだった。
この日のために神戸、京都、金沢などで蒐集していたシングル・レコード。
(それは僕の生きて来た足跡そのものかも知れない。)
今、完璧にメンテナンスを終え皆さんと共にこの独特の音圧による(痺れますよ!)レコードたちを愉しみたいと思う。
ぜひ100円玉握り締めて、go go go 🎶
杉山恒太郎
家でターンテーブルにのせて聴く歌
ラジオから聞こえてくる歌
喫茶店やバーで流れてくる歌…
そうした歌とジュークボックスで聴く歌との違いは何なんだろうと思う。
あのマシンの中には"ノスタルジア"や"記憶"のようなものを撹拌(かくはん)する謎の装置が隠されているのかも知れない。
目に見えない粉がそこから吹き出し、僕達は幸福な中毒者にさせられてしまうのである。
杉山恒太郎から共犯者に選んでもらったことを、僕はとても幸福で誇りに思っている。
立川直樹
今回も、杉山恒太郎さんと立川直樹さんによる(なんとも贅沢な)ナビゲートでお楽しみください。
お知り合いのお知り合いも、ご一緒に。
お好きな時間に、どうぞどうぞ。
立川直樹(たちかわ・なおき) 写真 左
1949年、東京に生まれる。ボリス・ヴィアンに憧れた青年時代を経て、60年代後半からメディアの交流をテーマに音楽、映画、美術、舞台など幅広いジャンルの仕事を手掛けてきたプロデューサー/ディレクターである。
tachikawanaoki.com
杉山恒太郎(すぎやま・こうたろう)写真 右
1948年東京都生まれ。立教大学卒業後、電通入社、クリエーティブ局配属。90年代にカンヌ国際広告祭国際審査員を3度務めたほか、英国「キャンペーン」誌で特集されるなど、海外でも知られたクリエイター。99年デジタル領域のリーダーとしてインターネット・ビジネスの確立に寄与。トラディショナル広告とインタラクティブ広告の両方を熟知した稀有なキャリアを持つ。電通取締役常務執行役員等を経て、2012年ライトパブリシティへ移籍、15年代表取締役社長に就任。主な作品に小学館「ピッカピカの一年生」、サントリーローヤル「ランボー」、AC公共広告機構「WATERMAN」など。国内外受賞多数。18年ACC第7回クリエイターズ殿堂入り、22年「全広連日本宣伝賞・山名賞」を受賞。
FM COCOLO(76.5MHz)
RADIO SHANGRI-LA
毎週日曜 22:00-23:00
DJ:TACHIKAWA NAOKI / SUGIYAMA KOTARO
https://cocolo.jp/site/blog/7220/
ジュークボックスはもともとアメリカ産で、1930年ごろまでは、オートマチック・フォノグラフ(自動蓄音機)として一般に知られていたが、ジュークボックスと呼ばれるようになった由来としては諸説ある。
もともと、(西部劇によく出てくるような)飲食やギャンブルを楽しむ店を “JUKE JOINT" と呼んでおり、それが語源となっている説。 “JUKE” はガラ語(*)で「無法、騒々しい、悪い」の意。
1920年代のアメリカの旅宿で、黄麻畑(ジュート)で働く人々が使っていた言葉からきているという説も。
*ガラ語(英: Gullah language)
アメリカ合衆国のサウスカロライナ州とジョージア州の群島および海岸の地域に住むアフリカ系アメリカ人のガラ人 (Gullah) によって話されるクレオール語である。
●正式名 SEEBURG ELECTRA “DISCOTHEQUE"
●メーカー名 SEEBURG(シーバーグ)アメリカ
●年式 1965-1966年
世界四大ジュークボックスブランド(**)の1つ。独特なメカ構成、ワンモーターで全て動かす、記憶回路も電気的、日本で見かけるのは珍しいタイプである。
日本にジュークボックスがやってきたのは、米軍キャンプを通じて入ってきた1950年代頃。
1948年に日本橋高島屋に初展示され、1953年に有楽町の外人バーに設置、1958年ごろのロカビリーブームで盛んに。1960年初頭は数千台のみだったが、1960年代後半から1970年代には、台数がうなぎ登りに伸び、最盛期は7万台が稼動。有線放送とカラオケの登場により、やがて姿を消していった…
現在もジュークボックスを生産しているのは、アメリカのROCK-OLA(ロッコーラ)、イギリスのLEISURE(レーザー)2社のみ。
**世界四大ブランド
AMI(アミ)ROCK-OLA(ロッコーラ)WURLITZER(ワーリッツァー)SEEBURG(シーバーグ)